日本山岳会北海道支部の沿革

◆1949年から4年間の「前史」

 北海道山岳連盟(道岳連)加盟団体と道内在住日本山岳会会員によって、1949年(昭和24年)3月に日本山岳会北海道支部が設立。道岳連会長だった村上善彦が初代支部長に就任し、橋本誠二、奥村敬次郎、豊田春満、山崎英雄、一原有徳、木村利雄、三角久光、楡金幸三、佐々木信、可知邦成、三沢弘、中野征紀の12人(橋本、奥村、豊田、山崎、中野らは北大山岳部OB)が運営を支える委員として名を連ねていた。

 同年9月の支部総会で、山崎春雄が2代目支部長となり、事務所が北海道新聞社に置かれた。当時の構成は、学校山岳部5、官庁山岳部4、職域山岳部3、その他3団体、個人51人と記録が残る。ただ1953年には消滅状態に陥り、実質的な活動期間は4年間だった。

◆深田久弥と帯広エーデルワイス山岳会

 北海道支部再設立は、作家深田久弥(1903~1971年)とニペソツ山(2013㍍)をめぐる今はなき帯広エーデルワイス山岳会との縁がきっかけとなった。

 深田久弥は、4年余り雑誌「山と高原」に連載した随筆をもとに1964年(昭和39年)7月、全国100の山(道内9山)を紀行で綴った単行本「日本百名山」を新潮社から刊行し、64~65年当時、ベストセラーとなっていた。そんな中、会発足5年目の帯広エーデルワイス山岳会会長の滝本幸夫と平野明の「ニペソツ山を百名山に入れないのはけしからん。登ったことがないから100名山に入れなかったのなら登ってもらうしかない」などという居酒屋談義が端緒となり、1965年(昭和40年)8月、深田久弥を帯広に招いて講演会とニペソツ山同行登山を実施する。

 ニペソツ登頂後、深田は「ニペソツ山の感激」(山と渓谷社「ハイカー」1967年8月号掲載)という紀行文のほか、別の著書で「日本百名山を出したとき、私はまだこの山を見ていなかった。 ニペソツには申し訳なかったが、その中に入れなかった。 実に立派な山であることを、登ってみて初めて知った 」と書くなど、帯広エーデルワイス山岳会を介して、道内の岳人との縁が一気に広がり、北海道行が相次いだという。深田は「日本百名山」改版の際、ニペソツ山の「追加」「修正」の可能性も示唆したとされるが、1971年3月、山梨県・茅ヶ岳登山中に急逝したため真相は不明だ。

◆深田久弥の声掛けで1969年に再設立

 1967年当時、道内在住の日本山岳会会員は81人いたが、日本山岳会本部で支部担当理事を務め、69年に副会長になった深田久弥からの声掛けをうけて北海道支部再設立の気運が醸成され、69年(昭和44年)7月に設立総会が開かれ、16年間の空白期間を経て、北海道支部は再設立に至った。

日本山岳会北海道支部再設立に向けて熱弁をふるう深田久弥
北海道支部再スタートの中心となった中野征紀(第3代支部長)

 支部設立発起人代表を務めた中野征紀が新支部初代(通算では第3代)支部長に就任。中野は再設立にあたり、「山登りは元来個人の自主性が尊ばれるべきであり、百人百様の考え方があるべきである。集会の山の雰囲気を楽しむ人、近郊の山歩きに浩然の気を養う人、そして、垂直の壁に最新技術を競うのもよかろう。支部はそういった人の集まりである」の言葉を残し、それが現在の支部の根底に流れる運営指針にもなっていると理解される。

 再設立のきっかけを作った帯広エーデルワイス山岳会からは、深田にニペソツ山頂を踏ませた滝本幸夫と平野明のほか、多くの人材が支部会員として、その後の支部活動の中核を担って今日に至っている。

 1949年~53年の4年間との合算で、2015年に支部創立50周年、2025年に支部創立60周年を迎え、50周年ではロシア・カムチャッカ半島遠征、60周年では噴火を繰り返す有珠山エリア(昭和新山含めて)で交流集会・講演などの記念事業を行った。

※写真・資料提供、取材協力:滝本幸夫さん(札幌、第11代支部長)