6つの山岳古道調査

 日本山岳会が進める「日本の山岳古道120選」の一環として、北海道支部では、会員4人が中心となり、道内の6つの山岳古道の調査取りまとめと執筆を担いました。

 江戸幕府がロシアの南下を念頭に、道東や道北への陸路整備の必要性に迫られてできた日高山脈南部の様似山道と猿留山道、増毛山地の増毛山道と濃昼山道は江戸時代に開削され、この4山道は江戸幕府の北方警備目的でできた山岳古道でした。また同じく江戸時代、松前藩の藩主らが往来に使ったことが起源の大千軒岳山麓の殿様街道、明治維新に入った直後、噴火湾側から新たな道都・札幌に向けて東本願寺の僧侶や信徒らによって開削された本願寺街道と、この街道と関連しながら現在の国道230号の原型となる中山峠を挟んだ旧道を取り上げました。

 詳細は、日本山岳会ホームページの日本山岳会が選ぶ「日本ほ山岳古道120選」を参照されたい。https://kodo.jac1.or.jp/hokkaido/#hokkaido

★様似山道と猿留山道★

様似山道「原田宿」跡
猿留山道・東入口近く

 日高山脈南部を挟んで、東の十勝地方と西の日高地方の間には険しい日高山脈が立ち塞がり、唯一の「弱点」と言えた山脈南部の低標高地帯に通すルートとして、江戸幕府の命で両山道は1799年(寛政11年)、ほぼ同期に開削されました。十勝地方と日高地方を結ぶ重要な交通路として開通した北海道(当時の呼称は蝦夷地)最初の官設道路でもあります。伊能忠敬や松浦武四郎が通ったことでも知られています。

 松浦武四郎が1859年(安政6年)に刊行した「東西蝦夷山川(えぞさんせん)地理取調図」でも描かれており、「小休所」と呼ばれる人馬の休みどころが設けられていたことが、江戸時代の絵図や記録でうかがい知ることができます。

 両山道とも開削の背景には、1792年(寛政4年)にロシア使節ラクスマンが国交を求めて根室に来航するなど、18世紀後半以降、千島列島経由でロシア南下の動きが顕著となり、鎖国政策を取る江戸幕府の危機感がありました。道南から根室方面への陸路整備の必要性に迫られたのです。

 両山道は2018年、国の史跡に指定されています。

①様似山道

 様似(シャマニ)山道は、海岸沿いに立ち塞がる日高耶馬(やば)渓などの断崖絶壁の難所を避けるため、様似町冬島から幌満にかけて開削されました。全長約7.1kmの山道で、山中には旅籠屋「原田宿」跡が残り、アポイ岳ジオパークにも含まれています。全ルートのうち、約4.5㌔部分が良好に復元・保存されています。

②猿留山道

 猿留(サルル)山道は、幌泉(現在のえりも町本町)から沼見峠を超えて猿留(現在のえりも町目黒)まで開削されました。元々の全長は約29.5㌔になります。国道336号やえりも町道、林道と交錯して元の姿が分かりにくくなっていましたが、ボランティアによる調査と復元が進められ、東入口と西入口区間の6.3㌔が良好な状態で復元されています。山道脇にあるハート型の自然湖として、テレビCMなどで有名になった豊似湖の駐車場からも山道に往来できます。

猿留山道からは豊似湖駐車場まで登山道でつながっている

★増毛山道と濃昼山道★

  北海道西岸の日本海側、とりわけ石狩湾~留萌地方にかけては海に洗われた断崖が発達し、海岸沿いの移動がままなりませんでした。江戸時代も後期に入るとロシアの南下の動きが本格化し、日本(江戸幕府)とロシアは1854年(安政元年)に日露和親条約を結びますが、樺太(現在のサハリン)を挟んで緊張関係が高まります。/

浜益御殿~雄冬山の増毛山道本線から雄冬山山頂を見る

 折からこの海岸線はニシンを求めて、道外から出稼ぎ漁業者のヤン衆が急激に増え、場所請負人による漁業経営で賑わっていました。江戸幕府は北方防衛と開拓に力を注ぐべく、箱館奉行所(現在の函館市)を通じて、この海岸線でニシン漁を担っていた場所請負人に断崖地帯を迂回する交通路の整備を命じるのです。

 増毛(ましけ)山道と濃昼(ごきびる)山道はそんな経緯で1857年(安政4年)、人馬が歩ける道として誕生しました。松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」にも記載されています。

広葉樹林帯に開削された濃昼山道

 明治時代後期には主要国道などに設置された一等水準点が増毛山道に17基(うち10基を発掘)、濃昼山道に6基(4基を発掘)設置、重要な道路だった証でもあります。両山道とも江戸、明治、大正、昭和にかけて多くの住民や旅人が通行、利用しましたが、日本海沿いの国道231号の整備(1981年全線開通)とともに利用者が減り、戦後に廃道化が進みました。21世紀に入ってから、住民有志、ボランティアにより、増毛山道は2016年、濃昼山道は2005年に復元。両山道は歴史的役割や機能を体感できる貴重な山道として評価、2018年に北海道遺産に選定されました。

③増毛山道

 増毛町別苅と石狩市浜益区幌を結ぶ本線27.4㌔と本線から増毛町岩尾地区に通じる岩尾支線5.6㌔から構成。最高標高点は雄冬山の肩で、標高は1080㍍。この最高標高点近くから2017年には雄冬山山頂までの山頂登山道が開削され、増毛山道から見晴し抜群の雄冬山山頂を往復できるようになっています。長い山道上にはかつての宿泊・休憩場所である武好(ぶよし)駅逓跡が整備されています。

増毛山道の石狩市浜益区幌側の「国有林起点」

④濃昼山道

 断崖が続くルーラン海岸を迂回するため、石狩市の安瀬集落ー濃昼集落の10.7㌔で結んでおり、最高標高は濃昼峠(357㍍)。当初のルートは山側に大きく迂回していて、標高565㍍のルヘシベ峠を経由していたとされますが、1893年(明治26年)~94年に、濃昼集落の網元・木村源作が「漁場に通うヤン衆のために」と、より海岸に近い現在のルートに改修したとされます。もともとの山道は「濃昼古道」として区別されていますが、復元はされていません。

濃昼山道からはブトシマナイ川沿いに「ルーラン海岸」に出ることができる。バックは旧厚田村最大の名所だった「アモイの洞門」

★北方警備目的以外の2山道

⑤殿様街道

 松前から箱館(函館)に至る約100㌔の道は「松前街道(福山街道)」と呼ばれ、北海道で古くから人が往来した道でした。この道は、松前藩が成立した16世紀末以前から、先住民族のアイヌの人たちによって、点在していた集落と集落を結ぶコタン連鎖道として出来たと考えられています。

 その中でも、大千軒岳(1072㍍)をのぞむ山麓の福島町兵舞(ひょうまい)から千軒地区住川までは、街道の難所の一つだったようです。峠の中を並行して2本のルートが保存・整備されています。代々の松前藩主が歩いたことから殿様街道の名が付けられています。2本のルートを周回して元の場所に戻る、ブナ林の中、総距離約7㌔のいわばブーメランルートを歩くのがおススメです。大千軒岳登山口に向かう道道の途中に殿様街道入り口があります。

 街道周辺では1988年(昭和63年)に廃線になった旧国鉄松前線の名残を随所で感じることができます。旧松前線は木古内駅と松前駅を結んでいた鉄路で、殿様街道とほぼ平行して走っていました。このため今も鉄橋やトンネルが残っていて、鉄路の歴史を残したスポットは、この古道の見どころにもなっています。

 松前藩主のほか、仏師の円空、松前藩の家老で画人、詩人でもある蠣崎波響、民俗学の先駆者である菅江真澄、福島町吉岡に上陸して北海道南岸を測量した伊能忠敬、北海道の名付け親・松浦武四郎など多くの歴史上の人物が往来したことも分かっています。また、古道界隈には、江戸時代初期のゴールドラッシュやキリシタン殉教、箱館戦争では新政府軍と旧幕府軍の兵士の攻防の歴史があり、箱館戦争時の砲台跡も明示、残されています。

⑥本願寺街道と中山峠旧道

 明治維新とともに新政府は北海道開拓に着手する中、新たな行政の中心地・札幌への道は、江戸時代から松前藩に庇護されてきた浄土真宗・東本願寺派の僧侶や門徒らによって1870年(明治3年)から翌年にかけて開削されました。

 噴火湾岸の伊達から札幌(平岸)までの103㌔の内陸路は本願寺街道(本願寺道路)と呼ばれ、とりわけ標高千㍍級の山並みが連なる喜茂別ー定山渓間は積雪や残雪が多く、山越えの難路だったと考えられます。中山峠には、建設総責任者だった現如上人の像「北門開拓 現如上人之像」が残されています。

 1873年(明治6年)に室蘭、千歳回りの札幌本道が完成したために本願寺街道は廃れるのですが、全面改修されて1894年(明治27年)に馬車道として復活、現在の国道230号の原型となりました。これが中山峠越えの旧道(中山峠旧道)です。

 中山峠旧道は、昭和の戦後には路線バスも運行するようになりましたが、中山峠の札幌側は急カーブの連続で転落事故が後を絶たず、「魔の山道」と恐れられ、道路脇には転落した車両の残骸や慰霊碑なども残されています。その後国道230号となり、昭和30年代に大改修がスタート。定山渓ー喜茂別間は道路の付け替え工事も行われ、最初の道とは異なる現・中山峠を越えるルートになっています。1969年(昭和44年)に全く新しい道に生まれ変わり、中山峠旧道は幹線としての役目を終えましたが、現在も大部分を歩くことができます。

 本願寺街道は、部分的に中山峠旧道にも姿を変え、その後もルートの付け替えを繰り返しながら、現在の道央の幹線国道230号に変遷してきた源になるルートと言えるでしょう。

中山峠に建つ、本願寺街道建設の責任者だった現如上人の像
かつてはバスも走っていた中山峠旧道。今は静かな林道といった風情だ